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第八章 近世の元禄文化
第一節 近世中期の文化
近世中期の文化は、元禄文化という。十七世紀後半から十八世紀初期にかけて、京都・大坂などの上方を中心に、町人の文化が生まれた。近世のこの時期になると、幕政が安定して経済が目覚しく発展し、町人階級が経済的な実力を持つようになり、町人の中から多彩な文化が生まれた。古代・中世の日本文化は、貴族などの上層階級に限られたものだったが、近世の文化は武士や町人にまで広く普及した。
江戸時代に、儒学、特に朱子学は、学問の本流だった。1690(元禄3)年に、幕府は江戸の湯島に聖堂を作り、儒学を尊重する方針を示した。このころ、武士の子弟のために各藩に藩校が作られ始め、そこでは『論語』などの四書が勉強された。民間では、寺子屋という初等教育の学校が広まり、読み、書き、そろばんなどが学ばれた。また、私塾という高等教育の場も発達した。そのために、庶民の識字率は高くなり、文化水準もしたがったと言える。
日本では、中世までは仏教の世界観、特に浄土思想の影響で、この世を「憂き世」と捉えていた。ところが、近世になると、身分的に最下位に位置づけられた商人は、経済上の実権を握るようになって、現世の生活を楽しんでいたことから、「憂き世」を「浮き世」として捉えるようになる。そこで現実そのものを描こうとする文学、芸術が町人の中から生まれ、浮世草子・浮世絵などの「浮世」という表現がよく出てくる。そして町人文化の中から、小説、俳諧、歌舞伎、浄瑠璃など、人々の心を明るく表現するものが生まれていった。
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学習ポイント
- 近世中期の元禄文化
- 元禄時代の文芸
- 近世の芸能
- 元禄時代の芸術
第二節 元禄時代の文芸
元禄文化の流れを概観すると、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉と密接な関連を持っている。元禄時代の庶民文芸は、この三人に代表されるとも考えられる。井原西鶴の浮世草子、松尾芭蕉の俳諧、近松門左衛門の人形浄瑠璃、歌舞伎の作品は、単なる文学作品ではなく、内容的に芸術作品になったとも言える。つまり元禄時代の文学と文化は、西鶴・近松・芭蕉による上方の町人文芸が中心だったのである。
井原西鶴
井原西鶴(1642-93)は大坂の町人で、はじめは貞門俳諧、談林俳諧を学び、数多くの俳諧を書いた。やがて日常生活に題材を取り、現実の世相や庶民を背景にした、浮世草子を書き始めた。西鶴は町人の生活を題材とする『日本永代蔵』、『世間胸算用』などの町人物を書いた。これらの作品において、西鶴は活気あふれる町人の経済生活を描き、町人の勤勉という倫理を力強く描き出している。西鶴の町人物は近世の庶民の世界を見事に反映していたと言えるだろう。
井原西鶴はまた『好色一代男』、『好色一代女』、『好色五人女』などの好色物を書き、遊里を舞台にして生活を楽しむ町人の姿を描いた。「好色」とは色事を好むことだが、このような表現は近世初期の仮名草子にも見られていて、特に西鶴の浮世草子だけに見られる特色ではない。しかし、西鶴はその好色物において、当時の遊里での享楽生活を具体的に描写し、人間の愛欲・金銭欲などを鋭く描き、新しい文学の世界を創造した。「好色一代男」のような文芸作品は、武士や庶民の絵本にも仕立られていった。
松尾芭蕉
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松尾芭蕉(1644-94)は伊賀の出身で、はじめは談林派の俳諧師だった。談林俳諧は『荘子』に基づいて自由奇抜な表現をねらうが、芭蕉は俳諧の本質の滑稽性・通俗性を忘れることなく、禅味を加えたわび・さびの境地を求めていった。そこで「わび」、「さび」、「しおり」、「かるみ」で示される幽玄閑寂の俳諧の風調を確立し、新しい作風を生み出した。その俳風を「正風」とも「蕉風」ともいう。
芭蕉は俳諧を人生の真実を歌い上げるものとするため、その解決を旅の中に求めた。その代表作に、『奥の細道』、『野ざらし紀行』、『笈の小文』などの紀行文がある。これらの作品には、旅を契機として道中の情景が描き尽くされている。また、自然と人生が溶け合い、自然と人間を鋭く見つめる感想が書かれている。室町時代末期に現われた気軽さやおかしみを主とする俳諧は、松尾芭蕉によって芸術にまで高められたとも言えよう。
近松門左衛門
武士の出身である近松門左衛門(1653-1724)は、近世の脚本家として活躍した。近松は歴史や現実の社会に題材を求め、多くの時代物と世話物を書いた。時代物は古典や伝説などに基づいて、武士の世界を描いた作品だが、世話物は当時の世相に取材して、町人の生活を描いた作品である。近松はこれらの作品において、武士道における主従の忠義、男女の愛情、義理と人情の板ばさみに悩む人々の姿を描いた。こうした多彩な人間像を描いた作品は、人々を感動させ、民衆の共感を呼んだ。近世の武士道思想と庶民の思想は、近松の作品に十分に反映されているとも言えよう。
1703(元禄16)年、近松は大坂近くの曾根崎で起きた心中を題材として、『曾根崎心中』を書いた。この作品において、遊女お初と町人徳兵衛の心中が語られている。『曾根崎心中』が人形浄瑠璃として世に送られて以来、心中が流行しはじめた。それ以後、心中事件をテーマにした心中物は、歌舞伎や人形浄瑠璃では重要な主題とされている。元禄時代に、歌舞伎や人形浄瑠璃は人々に喜ばれて、とても人気
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があった。両者が人気を呼んだのは、近松門左衛門がその脚本に多くの名作を書いたからだと言わなければならない。
武士道
武士道は、武士社会の倫理的な規範で、もともと武士が戦場にある心構えだった。ところが、近世に入ると、山鹿素行(1622-85)が儒学によって武士道を理念的に体系化して、武士道は極めて形式的、儀礼的、かつ形而上的な観念的倫理になっていった。そこで武士道は戦場の世界から離れて、社会秩序を維持するために、精神修養の規範となった。山鹿素行が説く武士道思想を「士道」という。
こうした儒教的な武士道の思想に対して、死の覚悟と主君への献身を強調したのは、山本常朝(1659-1721)の口述の書と言われる『葉隠』である。『葉隠』は、「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」と説く。この本において、死を覚悟した奉公精神が勧められ、死ぬこと自体が武士の生き方の根本として捉えられている。そこで武士道は即ち死ぬことを意味するようになった。
近代以後、武士という身分はなくなったが、武士道は国民道徳としての役割を演じることになった。そして現代では、武士道の思想は少し変わって、武士道は日本文化、日本人の伝統的道徳観として位置付けられている。
心中
心中とは、結婚できない男女が一緒に死ぬことである。江戸時代の遊里では、遊女が客に対して自ら愛の真実を示すために、髪を切ったり指の爪をはがして贈ったりした。これを「心中立て」という。しかしその後、時勢が悪くなり、もはやどんな手段でも自分の心を表すことができなくなっていった。そこで本来真実の愛を示していた心中は、次第に互いの生命をかけるまでに至って、ついに死ということを意味するようになった。
近代になって心中は恋愛に基づく情死のみならず、貧苦や病気などのために、親子が一緒に死ぬ、という親子心中のような複数自殺にまで拡大されて、今日に及んでいる。
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第三節 近世の芸能
近世の代表的な芸能は、歌舞伎と人形浄瑠璃である。舞踊から出発した歌舞伎は、人形浄瑠璃の台本・演出を取り入れて、内容と様式が豊富になり、多彩な発展を遂げた。そして歌舞伎と平行して発達した人形浄瑠璃は、筋や構成が歌舞伎に近いため、同一の台本が両者に用いられることも多かった。近世では、歌舞伎と人形浄瑠璃は民衆演劇として、隆盛を極めた。ちなみに、日本の芸能のうち、歌舞伎と人形浄瑠璃と宮廷時代の能楽は、日本における「三大演劇」と呼ばれて、日本の最も代表的な芸能になっている。
歌舞伎
歌舞伎の語源は、新奇異様な行動を意味する「傾きもの」といった言葉から来たものである。1600年ごろ、出雲大社の巫女阿国は、出雲大社の修復のための勧進として女性中心の歌舞団を組織して、念仏踊りを踊った。人気を博した阿国はその後京都に出て巡行し、評判となった。これが歌舞伎の始まりと言われている。阿国の念仏踊りは次第に風俗化した。1603年に、当時の新しい娯楽場だった茶屋や風呂屋などで、遊女が歌舞伎を演じるようになった。当時の民衆は、それを「遊女歌舞伎」と呼ぶようになった。遊女歌舞伎は歌舞伎の隆盛を招いたが、しかし女性の演出が風俗を乱すという理由で、1629(寛永6)年に幕府に禁止された。
遊女歌舞伎が禁止されると、舞台では男性が女性の役も受け持つようになり、若者が女性の役を演じるようになった。若者とは前髪をつけた十五歳前の少年のことで、「若衆歌舞伎」は未成年の美少年たちによって編成された。しかし、彼らも女装したりして、男色さながらの売春的な方向に進むようになった。そのために、幕府はついに風俗素乱を理由に、1652(慶安5)年に若衆歌舞伎を禁止した。1654(承応3)年、歌舞伎の出演者は前髪を切って月代をそった成年男子にすることとなった。世間ではそれを「野郎前髪歌舞伎」と呼んだ。こうして歌舞伎は成年男子が演じるようになってから、技芸と脚本主体の野郎歌舞
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伎として興行された。その後、歌舞伎は演技の工夫が進み、演劇への道を歩む。
歌舞伎の題材には、力強い様式的な「荒事」と、合理的で写実的な演技の「和事」がある。和事とは恋愛物、荒事とは大立ち回りのことで、それぞれの役者が得意とした芸風のことだ。歌舞伎では、子供の役は別として、すべての役は男性が演じる。男性が演じる女性の役は女形という。元禄時代に、上方に女形を得意とした芳沢あやめ、恋愛劇を得意とした坂田藤十郎、江戸に勇壮な演技で好評を得た市川団十郎などの名優が出た。歌舞伎は名作者・名優の輩出により、本格的な演劇として急速に成長した。
歌舞伎は女優を使わず、男性ばかりで演じられるため、女形が芸術上の女性を表現する。女形の使用により、独自の化粧法、派手な衣装などが歌舞伎の特色となっている。また、歌舞伎特有の舞台構造として「花道」がある。花道は舞台の延長でもあり、客席の中を通っている。花道を役者が通ることによって、役者が身近な存在に感じられるようになっている。歌舞伎の舞台に、場面転換する周り舞台もあり、これを観客の目を引く。このような様式性の濃い点と舞台構造は、歌舞伎を芸術にまで高め、一種の舞台芸術となっている。
元禄時代に、江戸、大坂、京都などの都市には、常設の芝居小屋が置かれた。歌舞伎が民衆の演劇として発達して、三都を中心に庶民の娯楽となった。歌舞伎の名作として、『仮名手本忠臣蔵』、『勧進帳』、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』などがある。近松門左衛門の『曾根崎心中』、『心中天の綱島』などの心中物は、歌舞伎の舞台でもよく上演されている。これらの作品は、当時から今日まで毎年のように上演されている。
人形浄瑠璃
人形浄瑠璃は歌舞伎と並んで、近世の代表的な民衆芸能である。人形浄瑠璃は浄瑠璃、三味線、人形が一体となって展開される人形芝居である。浄瑠璃はもともと琵琶法師によって扇拍子、琵
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琶の伴奏で語られていたが、江戸時代に入ると三味線の伴奏と操り人形と結びつき、人形浄瑠璃へと発展していった。そして竹本義太夫の出現によって、人形浄瑠璃は文学的にも音楽的にも飛躍的発達を遂げた。人形浄瑠璃は江戸時代前期から中期まで興隆して、当時大坂の文楽座にちなんで、文楽ともいう。
1684(貞享元)年、竹本義太夫が大坂に竹本座を作り、近松門左衛門が作った『世継曾我』という浄瑠璃を上演した。これ以後、義太夫と近松との提携によって、次々と新しい作品が上演されて、人形浄瑠璃の人気を盛り上げていった。1715(正徳5)年に近松は、明国の再興を願って日本に住んでいた鄭芝龍とその子の鄭成功が清朝と戦ったことを題材とする『国性爺合戦』を書いた。この作品は浄瑠璃の舞台で流行した。
言葉の説明 「仮名手本忠臣蔵」
『仮名手本忠臣蔵』は元禄時代の赤穂事件を題材にしている。1701(元禄14)年、江戸城内で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が儀式典礼役をめぐるトラブルから吉良上野介に斬りつけた。浅野は即日切腹を命じられ、浅野の領地は幕府に没収された。1703(元禄15)年、浅野家の家臣大石内蔵助良雄を首領とする47人は、主君の恨みを晴らすために吉良邸に討ち入って目的を果たした。その後、赤穂浪士は幕府の命令により切腹に処せられた。
1706(宝永3)年、近松門左衛門がこの事件をもとにして『基盤太平記』を書き、大坂の竹本座で上演された。『基盤太平記』は世に出てから、かなりの好評を博し、後に『忠臣蔵』のもとになった。1748(寛延元)年、近松に師事した竹田出雲はそれまでのいろいろな『忠
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臣蔵』の手本をかき集め、『仮名手本忠臣蔵』として集成した。それ以来、『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃と歌舞伎の脚本として上演されている。今日でもこの劇目は歌舞伎と人形浄瑠璃の中で最も人気のある演目として定着している。
第四節 元禄時代の芸術
(一)美術と工芸
元禄時代に、絵画、陶器、彫刻などの美術と工芸では、すばらしい表現が現われた。絵画では、当時民衆の風俗を映した浮世絵が流行した。浮世絵の創始者は菱川師宣(1618-94)と言われている。彼は浮世絵版画も始めて、その代表作は肉筆美人画の「見返り美人図」である。師宣の登場によって、印刷されたその版画は、安い値段で手に入れられることもあって、多くの人々に愛好された。かつて武士や貴族のために描かれた絵画を眺める楽しみが、このころにはすでに庶民のものになったのである。
工芸では、尾形光琳(1658-1716)が「燕子花図屛風」、「紅白梅図屛風」、「八橋蒔絵硯箱」などを書き、京蒔絵を発展させた。光琳の弟尾形乾山(1663-1743)は色絵陶器の感化を受け、楽焼と本焼の装飾的な陶器を残した。また、京都の野々村仁清は陶器に上絵付法を施し、京焼の色絵陶器を完成させた。その代表作に「色絵藤花文茶壺」、「色絵吉野山図茶壺」がある。そして染物では、京都の染物絵師宮崎友禅が糊付けの技法を改良して、友禅染を創始した。華やかな模様で染めた友禅染は、京都だけではなく北陸の金沢でも流行した。京都のものを京友禅といい、金沢のものを加賀友禅という。
(二)建築と彫刻
元禄時代の建築では、土蔵造という様式が採られた。土蔵造は周りの壁を土で塗った構造で、倉庫建築に使われていた。そして家屋建築
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として、瓦屋根の家屋が一段と普及していた。当時美濃出身の僧侶円空は、東日本を遍歴して、各地で民衆を教化しながら鉈彫の仏像を造った。代表作に両面宿儺像や護法神像、聖観音像などがある。鉈彫とは丸木の原材を割り、その割れ目を生かした荒削りの彫法である。このような彫法は、それまでの仏教芸術作品には見られない独特な精神性と芸術性を持っている。
以上のように、江戸中期の元禄文化は、文芸・芸能から美術・工芸などまで、町人の中から生まれたものが多く、かなり多くの町人がそれを担った。近世初期の文化は武士の世界を中心に、優雅な公家文化だったのに対して、元禄の文化は庶民的繁栄を強く反映して、庶民的色彩が強い文化になっているのである。
(文責:徐翔生)
【確認してみよう】
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
- 元禄文化に関係しない人を一人選べ。( )
a. 西山宗因 b. 井原西鶴 c. 松尾芭蕉
- 元禄時代の芸能として、不適切なものを一つ選べ。( )
a. 歌舞伎 b. 人形浄瑠璃 c. 能劇
- 浮世草子の代表的作家で、多くの好色物、町人物を著したのは誰か。( )
a. 井原西鶴 b. 松尾芭蕉 c. 近松門左衛門
- この中で、松尾芭蕉の作品はどれか。( )
a.『好色一代男』 b.『奥の細道』 c.『仮名手本忠臣蔵』
- 元禄文学の代表的人物の近松門左衛門の作品はどれか。( )
a.『日本永代蔵』 b.『曾根崎心中』 c.『太平記』
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二、次の( )の中に適当な語句を入れなさい。
- 歌舞伎と人形浄瑠璃の脚本を書き、『曾根崎心中』を著したのは( )である。
- 元禄時代に、さび・しおり・かるみで示される俳風を確立した俳人は( )である。
- 出雲大社の巫女と言われて、歌舞伎の基礎を作ったのは( )である。
- 操り人形と伴奏に三味線を用いた芝居は( )という。
- 元禄時代の赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃と歌舞伎の代表作は( )である。
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
- 元禄文化とは何か。
- 近世の芸能について述べよ。
- 歌舞伎について述べよ。
- 浄瑠璃について述べよ。
- 武士道について述べよ。
参考文献
- 石井進、五味文彦、笹山晴生、高埜利彦 『詳説日本史、改訂版』、山川出版社、2009年
- 川崎庸之、奈良本辰也 『日本文化史2近世・近代』、有斐閣、1977年
- 高野一彦 『近世の庶民文化』、岩波書店、1968年
- 西山松之助 『日本生活文化史. 6 日本的生活の完成』、河出書房、1986年
- 大隅和雄 『日本の文化と思想』、放送大学、1998年
- 尾藤正英 『日本文化論』、放送大学、1993年
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